公営塾で育む「生きる力」

近年、学校教育は旧来の一方通行の授業から、双方向型の授業にシフトしています。
アクティブ・ラーニングという言葉が人口に膾炙して久しいですが、意味をきちんと理解している人は意外と少ないのではないでしょうか。
アクティブ・ラーニングとは、文部科学省によると、
「教員による一方向的な講義形式の教育とは異なり、学修者の能動的な学修への参加を取り入れた教授・学習法の総称。学修者が能動的に学修することによって、認知的、倫理的、社会的 能力、教養、知識、経験を含めた汎用的能力の育成を図る」(2012, p.37)ものとされています。
大まかにいえば、「学習者自身が主体的に学ぶこと」と理解することができそうですが、
より重要なのは、「汎用的能力の育成を図る」点ではないでしょうか。
どうやらアクティブ・ラーニングという言葉には、ただ「積極的に勉強する」という意味以上のものが込められているようです。
つまり、「一生懸命丸暗記している」という状態では、アクティブ・ラーニングではないのですね。
個別具体的な事象から、普遍的な法則性や秩序を見出し、
考え方そのもの、思考の型を身に着けるのがアクティブ・ラーニングということになりそうです。
ところで、「アクティブ・ラーニング」の概念の登場と前後して、文科省は学習指導要領に「生きる力」を加えています。
それは知・徳・体の三要素に分けられ、
「知」=基礎的な知識・技能を習得し、それらを活用して、自ら考え、判断し、 表現することにより、さまざまな問題に積極的に対応し、解決する力
「徳」=自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や 感動する心などの豊かな人間性
「体」=たくましく生きるための健康や体力
と定義されています(2010, p.7)。
こと「知」に関しては、
知識があるだけではダメで、それを活用できるような思考力が重要、ということになりそうです。
しかし、なぜ知識だけだとダメなのか。
それは「競争と技術革新が絶え間なく起こる「知識基盤社会」では、幅広い知識と 柔軟な思考力に基づく新しい知や価値を創造する能力が求められる」(2010, p.8)からといいます。
確かに、色々なものが目まぐるしく変わる世の中では、とりあえず付け焼き刃で覚えた知識は明日には役に立たない可能性が高い。
それよりも、根幹の考え方・知識の使い方を身につけていれば、新しい状況やシステムに柔軟に対応できるというわけです。
これは、まさにアクティブ・ラーニングでいうところの「汎用的能力」と言えそうです。
「生きる力」における「知」を支えるのがアクティブ・ラーニングと考えられます。
<「教えすぎ」の弊害~学習者自身に考えてもらうために~>
弊社の公営塾の教育方針は、フレージングこそ多少違えど、まさにこの「生きる力=自分で考える力=自学自習力」を大切にしています。
弊社の公営塾は個別指導ですが、指導で黒板(ホワイトボード)を使いません。
生徒自身のテキストやノートをベースに授業を進めます。
黒板に解説を書けば、講師は「教えた気」になりますし、生徒は生徒で「分かった気」になるものですが、
結局、生徒は「話を聞いて、ノートを取ること」が仕事になってしまい、
これでは考える暇がないのです。
「教えすぎ」が学習者の主体性を奪うことに関し、評論家の外山滋比古は、一から十まで指導者が教えることは、学習者の「ただじっとして口さえあけていれば、ほしいものを口へはこんでもらえるといった依存心を育てる」(1986, p.18)と分析した上で、
「学びたい」という主体性・意欲を育てるという点において、「教えないこと」がかえってよい教育になる、と述べています(1986, p.19)。
しかし、漢文の素読では、意味を教えないのが普通で、だからこそ、素読というわけである。いくらこどもでも、ことばである以上どういうことか、意味が気にならないわけがない。しかし、教えてもらえないのだから、しかたがない。我慢する。その間に、早く意味もわかるようになりたいと思う心がつのる。教えないことが、かえっていい教育になっているのである。(外山, 1986, p.19)
「あえてすぐに答えを教えない」ことが、学習者の「学びたい」という主体性を引き出す。
人にものを教えるという営為に関して、なかなか示唆的なのではないでしょうか。
とはいえ、上の引用で、外山は何も「教えないことこそが教育だ」と言っているわけではありません。
あくまでも、「教えすぎること」が学習者の本来持っている主体性や自分で考える力の芽を摘み取ってしまうことに対する警鐘と理解するべきでしょう。
当たり前ですが、本当に何も分からない人に、本当に何も教えないのは酷です。
大事なのはバランスであり、「教え込む」のではなく必要十分なヒントを与えること、
与えたら生徒自身の考える力を信じてまずはやってみさせること、なのではないでしょうか。
「黒板を使わない個別指導」はまさに、「なんでも教えること」ではなく「考えさせること」に重きを置いたスタイルです。
とりあえず知識だけ詰め込んで、要領よく点数を取るのも悪くはありませんが、そうして身につけた「知識」はすぐに忘れます。
一方、自分で考えたこと、発見したことは、なかなか忘れないものです。
都市部での学習環境は、どうしても目先の進学実績や受験テクニックに重点が置かれがちです。
しかし近年、地方を中心に、地域の学校と連携し、官民共同で主体的な学びを促す塾の開設が相次いでいます。
事業者によって色は異なりますが、探究的な学習姿勢に重きをおいているのは一つ大きな特徴といえるでしょう。
点数の先にあるものを見据えたい人にこそ、地方でこそ可能となる主体的な学びに興味を持ってもらいたいと考えています。
<ひとまず、読んでくださったあなたに考えてほしいこと>
とはいえ、この記事が、「都会=点数至上主義=表層的」VS「地方=プロセス重視=本質的」という安易な二項対立を打ち立てたいわけではありません。
いわゆる「受験テクニック」「うまい解法」を否定するわけでもありません。
主体的で本質的な学びというのは、自分の心持次第でもあります。
都会にいても、点数に追われない学習を大事にすることは可能ですし、その逆も然りです。
ただ、人は環境に左右されるもの。
点数だけにとらわれない学びを後押しする土壌があることと、そういった土壌をつくってくれる「先生」の存在は、取り換えがきかないものです。
よい学習環境=都市部 の時代は、終わりつつあります。
「いい大学に行くための勉強」がメインストリームの中、お子さんの教育のオルタナティブとして、地方の教育環境・地方での学びに注目してみませんか。
当ブログでは、これからも地方でこそ可能な魅力ある学習環境について発信してまいります。
目先の点数だけを追う学びに疑問を感じる人、主体的に学ぶ姿勢を大事にしたい人、地方の教育環境に興味を持ってくれた方は、今後の記事にぜひご期待ください!
出典
外山滋比古 (1986).『思考の整理学』筑摩書房.
文部科学省 (2010).「学校・家庭・地域が力をあわせ、社会全体で、 子どもたちの「生きる力」をはぐくむために ~ 新学習指導要領 スタート ~ 生きる力」
https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/pamphlet/__icsFiles/afieldfile/2011/07/26/1234786_1.pdf
文部科学省 (2012).「新たな未来を築くための大学教育の質的転換に向けて~生涯学び続け、主体的に考える力を育成する大学へ~(答申)用語集」
https://www.mext.go.jp/component/b_menu/shingi/toushin/__icsFiles/afieldfile/2012/10/04/1325048_3.pdf








